002_人はなぜ遊ぶのか_その2
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自分自身を楽しむために、
まずはヒトという生き物自体の特徴を知りたい。
そんな考えから辿り着いたのは、
1938年オランダの歴史学者が唱えた
「ホモ・ルーデンス / ヒトは遊ぶ存在である」という定義の解釈の続き。
私たちの生活に置き換えると
仕事、生活、休暇(←遊び?)という安直な発想になってしまう。
それらを上手く分別して生活してる人もいれば、
ずっと仕事してる人も、遊んでばっかの人もいる。
仕事を遊び感覚でできる人もいる。
それって何の違い?…そもそも遊びってなんだ?!
という疑問がこの話の出発点。
そこで「ホモ・ルーデンス」の著者、ヨハン・ホイジンガのいう、
「既存の遊び」をまずは説明すると
競技・社会制度・法・政治・芸術・文化・学問・思想・デジタル領域・など
身の周りの様々な出来事に「遊びの精神」が宿っていることが分かる。
理屈はさておき、まずは以下の事例を。
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A_競技
スポーツ(フットボールや柔道など)・ボードゲーム(チェスや将棋など)・ギャンブル(トランプやルーレットなど)
B_社会制度/法/政治
裁判・議会討論・選挙・王権儀礼・宗教的舞踏
C_芸術/文化
ギリシャ悲劇・能・サーカス・詩作・韻文・即興演奏・合奏・書道・抽象画
D_学問/思想
仮説実験・理論モデル・メタフィクション
E_デジタル領域
ゲーム・メタバース・VR・SNS・eスポーツ
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この世は、ほぼ遊びやんけ...という気分になってきた。
もしかしたら、私の今この執筆も遊びなのか?というように
あらゆる物事について疑問が湧いてくる。
それだけでなく、執筆という行為自体を「遊び」的に行うことだってできそうだ。
できるだけ楽しい時間が多い方が良い。
ならば、できるだけ身の周りの行いが遊びであってほしい!
そんな一種の希望さえ感じるが、
どのような条件であれば「遊び」と呼べるのか知りたくなった。
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『ホイジンガによる「遊び」の特徴/条件』
① 遊びは自由である(自由な行為)
・ 遊びは強制されて行うものではない。
・遊びは「したくないのにやらされる」時点で遊びではなくなる。
② 日常生活から離れた行為である(非日常性)
・遊びは“普通の生活”とは別の領域に属する。
例:祭り・競技・芝居などは日常を離れた特別な時間と空間で行われる。
③ 時間的・空間的に限定される
・遊びには開始と終了があり、一定の場所で行われる。
例:サッカーのフィールド、劇場、儀式の場など。
④ ルールに従って行われる
・遊びの世界にはその行為を成り立たせる固有のルールがある。
・「ルールを破ると遊びそのものが成立しなくなる」とホイジンガは強調。
⑤ 緊張・競争・不確実性を含む
・ 遊びには「結果がわからない」「勝敗がある」「失敗するかもしれない」などの要素がある。
・ これが遊びに魅力・真剣さ・盛り上がりを与える。
⑥ 目的は外的利益ではない(無目的性・非功利性)
・遊ぶ目的は“楽しむこと”そのものであり、金銭的利益や実用目的ではない。
・実利を目的とした瞬間、それは「仕事」や「作業」であって遊びではない。
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以上が遊びの特徴/条件。
ぼんやりとした「遊び」という存在の輪郭が見えてきたように思う。
ホイジンガはこれらの特徴をもとに
「遊びは文化を生み出す根源的な力である」と論じている。
文化ってなんや?という問いは棚に上げて(いつかのテーマで)
とにかく、遊びの精神が我らの生活様式を形作っているという仮説を立てることができる。
まだまだ、遊びにまつわる名詞を分類しただけなので、
論理と体感が足りない。
各カテゴリーをさらに深掘り、
日々の営みに応用できるまで解釈したい。